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【読書】論理哲学論考【書評と考察】

Summary

「誠実に生きるにはどうすればよいか」 意識的にせよ無意識にせよ、この問に苦しんで […]

「誠実に生きるにはどうすればよいか」

意識的にせよ無意識にせよ、この問に苦しんでいる人は少なくないものです。この記事を読んでくださっているあなたもよく考えるとこの問に苦しんいる可能性は低くないと言えます

なぜなら、「誠実さの問題」とは「人との向き合い方の問題」、すなわち「人間関係の捉え方の問題」でもあるからです。

恋人との関係がうまくいかない。家族との関係がうまくいかない。会社での人間関係が苦しい。

これらの問題は言い換えると、

  • 恋人に対してどのように自分の気持ちを伝えるべきなのか
  • 家族との関係をよくしていくにはどのように行動するべきなのか
  • 会社で毅然とした態度で人間関係を作るにはどうするべきか

と表現することもできます。

誠実さの問題は「善さの問題」といっても良いでしょう。結局どうすればいいの? というときには、多くの場合誠実さが問題になっているのです。

ということは「誠実さの問題」とは人間であれば誰であっても関係のある問題であるということです。

そして、ぼくはこの問題に悩むあまりうつ病になってしまいました。

うつ病になった期間、誠実に生きるにはどうすれば良いかを教えてくれる本を探し回りました。

純粋に生きることに対する潔癖さからこの誠実さの問題が解決できない以上生きていくことができないとまで思っていたのでした。

そして、最終的に見出した答えは極めて鋭く、美しい回答でした。

「誠実さとは、語りえぬものである」

これは大哲学者ウィトゲンシュタインの考えをぼく流にアレンジした表現です。

いきなり言われても意味不明だと思います。それでは、なぜこの表現がぼくにとって「誠実さの問題」についての回答になったのか、深く見ていきたいと思います。

世界を論理的に捉える

今でこそ論理の重要性が叫ばれていますが、ウィトゲンシュタインほど論理的に世界を捉えようとした人はほかにいないのではないでしょうか。

ウィトゲンシュタインは哲学者と言われていますがもともとの専攻は論理学だったようです。

それも当時の論理学者としては最高権威であったバートランド・ラッセルに師事していたのです。

そのラッセルを捕まえて深夜まで議論を重ね、「いま先生が議論を打ち切って帰るならぼくはここで自殺します」とまで言い放ち、ラッセルと徹底的に議論を重ねていったそうです。

そして、第一次世界大戦を経て、第一の大著「論理哲学論考」を執筆します。

その論理哲学論考の結びの句をここに書いておきましょう。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」

これがウィトゲンシュタインが出した結論なのです。

どういうことかというと、

形而上学的な議論の対象や倫理学の内容は言葉で語ることはできない。したがって、それらについて議論することは不可能であり、言葉の濫用でしかない。これらの議論することができないものについては沈黙しなければならない。

ということです。

言葉で語れないものを無理やり語ってなにかをわかったふりをするのはやめようという立場です。

ウィトゲンシュタインは徹底的に論理的に世界を捉えることにこだわった結果、論理では捉えきれない領域の存在を認めたと言えばわかりやすいかもしれません。

これは直感的にはすごくわかりやすい考え方だと思います。

人間にとって本当に大切なことは論理では捉えらえないと言われればうなづく人は多いのではないでしょうか。

簡単に言ってしまえばこのようなことでおよそ間違ってはいないと思いますが、気になる人は論理哲学論考を手に取ってみてください。

その難解さ、議論のレベルの高さ、哲学書独特の癖に驚いてしまうと思います。

彼ほど徹底的に「善く生きるとは何か」というテーマについて考え抜いた人間は他にいないと思います。

 

ぼくは論理の病に陥っていた

ウィトゲンシュタインの考え方はぼくにとっては衝撃的な内容でした。

ぼくは15歳のころにうつ病を発症しました。原因は様々ですが簡単にいってしまえば家庭の不和です。

しかし、今ほどものが見えていない幼かったぼくには自分の何が悪いのか全く理解できませんでした。なぜうつになったのか、なぜこんなに苦しいのか、漠然とは感じても全く言葉に直すことはできませんでした。

15歳という年齢を考えると当然と言えば当然ですが、自分の気持ちを言葉にするという能力が低かったのです。

そこで、ぼくは自分の病を改善していくためにはまずは徹底した分析能力が必要だと考えました。それに、何かに没頭してしまえばその間は悩みや苦しみを持たずに済みます。

そのためにぼくは大学で数学の道を選びました。

そこから徹底した論理の道へ傾倒していくことになります。

数学の世界では論理は絶対です。加えて自分の頭で考える力もつくため、少しずつ自分の気持ちを言語化する能力も高まっていきました。読書もたくさんしていましたから。

そして、22歳になったころ、ようやく自分がうつ病になってしまった根本原因を突き止めたと感じることができました。

そこに至るまで徹底した論理主義に染まっていたぼくは、自分の人生を取り戻そうと原因に対する対処法、生きる上で感じる苦しさを克服する方法を考え抜きました。

ある程度まではうまくいきました。

しかし、途中から論理に頼るやり方に限界を感じるようになりました

なぜなら、世界というものは「なぜ」と問い続ける限り、無限に疑問を深めていくことができることに気づいたからです。

数学の世界ではそのようなことは起こりません。公理という誰もが認めるルールを最初に定めておくので、「なぜ」と問い続けた結果公理まで戻ってしまえばそこで終わりです。

図で言えばこんなイメージです。

台形の土台にあたる部分が公理だと思ってください。土台の部分を作ってやることによって積み重ねていくことができるのです。

しかし、世界には公理がありません

公理というものはあくまで人間が定めたルールでしたありません。したがって、人間が今まさに生きているこの世界には公理はないのです。世界は人間が作ったものではありませんから。

何が起こったかというと、生きる理由が真剣にわからなくなってしまったのです

論理こそ絶対と信じていたぼくにとって、「なぜ生きるのか?」という質問に対する答えが存在しないのは大問題でした。

根拠がないものは信頼するに値しないからです。つまり、生きることに対する信頼感を失ってしまったのでした。

その時に人生で2回目のうつ病を発症しました。

そして、ウィトゲンシュタインに出会います。

 

「生きることに理由などない」は間違い

ぼくが生きる理由を求めて考えに考えて苦しんでいたころ、その状況を一撃で打破する衝撃的な出会いがありました。

それが「論理哲学論考」との出会いです。

ウィトゲンシュタインはぼくよりも100年も前に、ぼくが考えている問題を含むテーマについて人生をささげて考え、素晴らしい考察をたどり、極めて自然な結論にたどり着いていたのです。

簡単にいってしまえば簡単なことです。

生きることの根拠は語ることができない

ウィトゲンシュタインはそう教えてくれました。

これは「生きることに理由はない」と断言している立場とは大きく異なることに注意してください。生きる理由などないという立場はウィトゲンシュタインの立場からは「語りえぬもの」について言及しようとしている言葉の濫用でしかなく、ナンセンスな命題なのです。

彼は生きる理由がないなどと言おうとしているのではなく、そもそも議論することすら不可能であるといっているのです

ぼくはこの考え方が正しいと思えて仕方ありません。

ウィトゲンシュタインの深い洞察には頭が上がりません。

 

さいごに

ウィトゲンシュタインはこれらの問題を考察することに生涯をささげました。

「論理哲学論考」自体は彼が若いころに出版された本ですが、その後も論を深めていくための考察を一生続けたのです。

それは、もし彼の本に出会わなければぼくが送るはずだった過程だったかもしれません。そして、ぼくの頭脳など彼のそれに遠く及ばず、人生を無駄にして終わっていったかもしれません。

しかし、彼が100年も前に徹底して考えてくれていたがゆえに、ぼくはこの問題を乗り越えて、その先を歩いていくことができます。

まさに、巨人の肩に立つ、ですね。

こういう人生を決定づけるような出会いがあるから読書はやめられません。

ぼくが読書を強くおすすめするのはこういう経験があるからです。本には作者の何十年分もの経験が凝縮されているのです

それでは最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

気になった方のために「論理哲学論考」とその解説書をセットで紹介します。 ぼくはこの解説書のおかげで少しは本筋を追うことができました。非常に難解な本ですので、副読本を用意して読むことをおすすめいたします。

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