【体験談】心理的虐待の実体験【まさか自分が】
虐待。
この言葉をきくとどうしても悲惨な暴力や性暴力を振るわれた極端な事例が頭をかすめます。
もちろんそのような過酷な虐待を減らしていくことは非常に重要なことです。
しかし、それと同じくらい問題にすべきなのが「中強度虐待」です。
中強度虐待というのは自分や他人からみて明らかに虐待と言えるほど悲惨なことは行われていないものの、子どもにとって大きな負担になっている状態のことです。
画像のように黄色い線より下の範囲は「一般的な家庭」として処理され、問題になることはほぼありません。
しかし、子どもたちにとっては自分が育ってきた家庭がどのくらい健康な家庭だったのかを知るすべは多くないので、事件性の無い「中強度虐待」は問題にならず後遺症だけを残すことになります。
これが中強度虐待の怖いところです。
原因がはっきりしていれば対処のしようがありますが、原因が分からなければ対処のしようがありません。
だからこそ、中強度虐待というものの存在を多くの人が認知し、それによって引き起こされる社会生活上の問題を改善していくために乗り出してくれることを願います。
その方が絶対に本人にとっても生きやすくなりますしね。
本人も生きやすくなるし周囲の人も虐待の後遺症を持っていた人が朗らかになれば接しやすくなります。まさにwin-winです。
少し話がそれましたが、「中強度虐待」の事例を知ってもらうためにもぼくの体験談を記そうと思います。
この記事をおすすめしたい人・子ども時代家庭にいずらかった人
・自分の家庭を客観的に振り返りたい人
・少しでも「虐待だったかも」と思う人
目次
中・高生の頃の体験
それではぼくが受けていたと思う心理的虐待とその背景について記します。
読んでくださった方の状況を客観的に見る一助になれば幸いです。
心理的虐待の背景
ぼくが心理的虐待を受けていたなと思うのは主に中高生の頃、とくに受験に関係することです。
ぼくは中学受験に失敗していました。
小学生の頃に塾に通い、私立の中学をいくつか受けましたがすべり止め以外は全滅し、結局近くにある公立の中学校に通うことになりました。
その背景があり、母からの「高校ではリベンジを」という空気をひしひしと感じていました。
教育方針に関して父と母は合わなかったようです。
父は本人がやりたいと言わないなら中学受験なんて必要ないという考え、母はなんとしても一流の学校に行かせて将来の幅を広げてやるんだという考えでした。
母は世間体に弱い人でもありました。
これはあとから知ったことですが、なぜそんなにぼくを良い学校に行かせることにこだわったかというと、母がぼくを妊娠したころ、父の親類からある電話をもらったそうです。
というのも、「よく男の子を妊娠してくれた。これで○○家(父の実家)は安泰だ!」と言われたそうです。
その電話を受けて以降、特に家系がしっかりしているわけではない母はぼくの教育にとても責任を感じるようになったそうです。
結果的に受験期には良い学校に入れることにこだわるようになったようです。
父は反対していたものの、ぼくの父は少し風変りなところがあり、世間体を気にしなさすぎるところがあるので母は父の意見を全く聞かなかったようです。
高校受験では最高峰を
そして、中学受験に失敗したという背景からぼくは高校受験では県下最高峰である公立学校を目指すことになりました。
驚くことに母は「あなたが行きたいといったから目指す手伝いをした」と言っていました。
間違ってもぼくは高校受験のことなどまだ先のことと思っていましたので、志望校なんて考えたこともありませんでした。
しかし、母の脳内ではぼくがその学校に行きたいと言ったことになっていたようです。
母は明確にはその学校を目指しなさいとは言わなかったものの空気感からその学校に行ってほしいという気持ちがひしひしと伝わってきました。
中学生の頃のぼくはまだ意思表示がそれほどうまくなく、母の必死な空気を感じ取ってしまうと無言のうちにも従わざるを得ない状態でした。
母はプレッシャーをかけてきました。
進学塾の定期試験で偏差値70をとっても「これくらい毎回とらないと意味がない」といった調子で、どれだけ高得点をとっても、できていないところを指摘されてOKが出ることはありませんでした。
いくらやっても次のタスクが重くのしかかる。
こんな調子の生活で中学校生活が続きました。
しかも高校受験は内申点も関係があるので学校での態度も常に気を付けるように言われていましたし、気を抜けるところが1つもありませんでした。
部活はそれなりに楽しかったものの運動部だったので楽ではありません。
学校、塾、部活、家庭のそれぞれで追い詰められ、友達とゆっくり遊ぶ時間もありません。
今思うとブラック企業のような家庭でした。
中3でうつ病に
そんな生活が3年も続けば当然ですがぼくは精神を病みました。
中3の1学期頃から定期的に学校を休むようになり、2学期には不眠が続いたので親に頼んで精神科に連れて行ってもらいました。
しかし、当時は中学生がうつになる事例は少なかったらしく、精神科の先生も「抑うつ反応は出ているが大丈夫だろう」と。
そして、「お父さんに一発殴られたら治りますよ」と母に向かって言いました。
それを聞いた母は鬼の首を取ったように「やっぱりお前が甘えていたんだ」となりました。
ちなみに次の日、朝起きられず布団の中にいると父親が部屋に入ってきて起きぬけに一発殴られました。
いま思うと本当に散々な中学校生活だったと思ます。精神科に行ったのは失敗だったというか、近くにあった精神科が完全に外れでした。
(いまはうつ病の認知もかなり進んだのでさすがにこういうお医者さんはいないと思います。うつ病になったら病院にいくことがとても大切ですので、いまうつ病かもと思っているかたは迷わず病院に行ってください)
結局うつ病は良くならず、受験では2ランクほどレベルを落とした学校に入学し、高校1年生の秋に完全につぶれました。
まとめると
やはり最大のポイントは親子の間でコミュニケーションがとれているかどうかだと思います。
母親の特徴はとにかく一方的に注文を押し付けてくるばかりでぼくの意見は聞こうともしませんでした。
母は母で世間体というものに押しつぶされないように必死だったのだと思います。
母にとって世間体と子どものどっちが大事なんだと詰め寄れば「子どもに決まっている」と口ではいいますが、いざ世間体が悪い状況になると手のひらを反すように世間体をとってしまう人です。
これは母の歴史にも色々あってこうなっているのです。さっきの父方の親類からの電話もその一つです。
母の歴史についてはまた改めて記事にしましょう。
どうやって心理的虐待に気づいたか
以上が体験談になります。
そして、話の恐ろしいところはいまとなっては明らかにおかしいと分かる上記の体験をしていながら、ぼくは半ば本気で「自分が弱い、自分が甘えているからうつ病になったんだ」と思い込んでいたことです。
心理的虐待を受けると洗脳状態になっているのでしょう。
親に罪悪感を埋め込まれ操り人形のような状態にされているので「お前が悪い」と言われると「私が悪い」と簡単に思い込んでしまうのです。
そんなぼくに転機が訪れたのは大学4年生の頃でした。
塾講師で中3の実態を知る
ぼくは大学の4年間学費を稼ぐために塾で講師をしていました。
集団授業です。
嬉しいことに4年目には受験生を任せてもらえるまでになりました。
そこで、体験したことはぼくの一生を変えるほどのインパクトを持っていました。
なぜなら、健康的な中3の姿を知ることができたからです。
中3というのは大変な時期です。ただでさえ思春期真っただ中で多感な時期に受験という一大イベントを迎えます。
それでも、多くの中3生は主体的に受験に立ち向かい、立派に成長していきます。
彼らの悪戦苦闘する姿を見て、ぼくは思い知りました。
いかに自分が母親にマインドコントロールされ、不健康な状態に陥れられていたのかということをです。
受験だけでも大変なのに授業ではこう、部活ではこう、と色々押し付けられ注文・文句を言われ続けました。
それがいかに不健康な状態だったか。
そのような親の干渉がなければ中3生のなんとのびのびと成長していくことか。
生徒たちの姿を観察し、話を色々聞いているうちに、彼らはぼくの頃のような親の過度な干渉は受けていないということが分かってきました。
そこで、ぼくの家庭に問題があることに気づきました。
心理的虐待に気付いてから
心理的虐待に気づいてからも大変な時期が続きました。
自分は傷ついているということに気づけただけでまだこれから傷を癒していかなければならないからです。
その後、様々な本を読み、少しづつ改善していくことになります。
さいごに
少し長い記事になってしまいました。
しかし、全体を通してお願いしたいことは、この記事を読んで虐待に苦しむ人が自分の状態に気づき、自分の人生を生きるきっかけをつかんでもらうことです。
まさか自分が虐待されていたなんて思いもしない人はたくさんいると思います。
ぼくもそうでした。
しかし、現代社会を見渡せば、心理的な虐待を少なからず受けていると思える人は大勢います。
決して「自分は被害者だ!」と居直ることをすすめているのではありません。そうではなく、自分が抱えているものを知ることでどうやったら荷物を降ろし、自分を癒すことができるのかを知ってもらいたいと思っているだけです。
それでは、また次の記事で。
うつ病で高校を留年した現在25歳くらいの男.うつになっても立派に生きていけるし, 幸せにもなれるということを発信していきたい.様々な赤裸々話を抉り出していきたいので顔は隠しています.うつ病になってはじめて気づいた,人々を苦しめる仕組みや社会のおかしな部分を少しでも良くするために「こんなことって実は問題なんじゃないか?」ということを書いていきます.